山ン寺で蘇る懐かしい記憶
コラム 岩楯愛久美 イロハピデザイン
山ン寺。
聞いたことはあったけど、訪れるのは今回初めて。
山ン寺までの道のりは、
「え?ここ?ほんとにあるの?」
と不安になるような険しい山道。
そんな山道を登っていくと、入口がありました。
山ン寺遺跡。
中世の山岳寺院を中心とする宗教遺跡と、現代までの信仰地が重複している場所で、海を舞台に活躍した水軍 “松浦党”ゆかりの地。
松浦党は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団。かつて蒙古襲来があり伊万里湾に「元軍」が押し寄せた時、大陸との交易で海に詳しい松浦党が鎌倉幕府の執権である北条時宗と協力して、日本を守ったという歴史もあるようです。
“蒙古襲来”、中学生の頃社会で習った時は、遠いどこかの話だと思っていました。まさか伊万里湾にも攻めてきていたとは!知らなかった!
さてさて、
入り口を進んでいくと、少し開けた場所に着きました。ここは山ン寺広場。
山ン寺広場でまず目についたのは、お堂に入った大きなお地蔵さん。なんと高さは2メートルもあります。
本尊延命地蔵、別名子育て地蔵とも言われ、幼児の延命と福利がかなうお地蔵さんだそう。
松浦党の人々も、ここで子どもたちの成長を祈ったのでしょうか。
奥には釈迦堂。
中は見れませんでしたが、正面には「本尊来迎阿弥陀如来座像(ほんぞんらいごうあみだにょらいざぞう)」、祭壇の両脇、右側には「不鉄桂文師(ふてつけいもんし)」、左側には「虚空蔵菩薩像(こくうぞうぼさつぞう)」が祀られているそうです。
池もありました。
この池は、釈迦堂と山祇神社に供える神水や修行僧や参拝者の飲料水のための湧水池のようです。池の水が実際に使われていたんですね。
池の左手の鳥居から階段を登ります。
急な階段。運動不足にはこたえます、、。
息切れしつつ、登りきったところにあったのは山祇神社(やまずみじんじゃ)。
山祇神社には「橡樟日神(よしょうにっしん)」を主神として、「熊野権現(くまのごんげん)」と松浦党祖三代の霊が祀られています。
山祇神社には北鳥居と東鳥居、ふたつの鳥居と階段がありました。
鳥居の額には、「熊野 十二社 大権現」の文字。
山祇神社の佇まい、そして階段と鳥居。
…あれ? ここなんか知ってるぞ??
この場所に足を踏み入れた時、妙に懐かしい感じを覚えました。
そうだ!権現さんだ!
子ども時代に過ごした地域で「権現さん」として親しまれていた神社にそっくりなんです!二つの階段の位置も同じ!
夏祭りが行われたり、友との遊び場として思い出のある山代の神社。階段の上から鳥居の上に石を投げて遊んだな〜、椎の実を拾っておやつにしたな〜、など昔の記憶がありありと蘇りました。
権現さん、気になって昔撮った写真をひっぱりだしました。
鳥居の写真がありました。額に掲げられていたのは「若王子」の文字。
実はこの「若王子」、山祇神社の「熊野権現」と関係があったのです!
詳しいことは分かりませんが(すいません…)、若王子は熊野十二所権現のひとつのようです。似ているのもそのためでしょうか。
自分の育った地とのまさかの繋がり。
そして、山ン寺遺跡で繋がりを感じたことがもうひとつ。
山ン寺広場にある「松浦党の性(苗字)」の説明板。
父方の姓、母方の性、親戚の性、海で漁師をしていた曽祖父が住む地域の名の性もありました。
私も遡ってみると、松浦党の血を受け継いでるのかもしれません。
初めて訪れた山ン寺遺跡、そして松浦党について。歴史は長くて深く、知らないことだらけ。
繋がりを感じることが出来た今回を機に、少しずつでも知って行きたいと思いました。
山ン寺遺跡を後にし帰り道、小学校の頃遠足で登っていた竹の古場に立ち寄りました。
久しぶりに見た展望台からの景色。
松浦党の人々も、伊万里を、肥前を、海の向こう側を、こうして山の上から見ていたのかもしれませんね。
※引用・参考文献
山ン寺のおはなし/発行者:松浦党山之寺史跡顕彰会 編集執筆社:伊万里市郷土研究会
ウィキペディア「松浦党」
◯山ン寺遺跡
佐賀県伊万里市東山代町川内野字山ン寺